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消臭効果があり蒸れにくく耐久性もある、ファクトリエの大人気アイテム「和紙ソックス」。
このソックスを手掛けたのが、岐阜県関市で長年にわたり靴下を作り続ける「東洋繊維」です。その歴史はとても古く、はじまりは昭和12年、名古屋市中区にて創業者・水谷定一さんが開業したメリヤス卸商店にまでさかのぼります。
戦争が激化する中で岐阜県岐阜市に疎開したものの、海軍の招集で軍隊生活を送っていた定一さん。戦後、岐阜市に帰ってみると無残にも空襲で原料は丸焼け。しかしながら、かろうじて唯一残っていたのは靴下編機でした。この焼け残った靴下編機を前にし事業再開の意欲が湧き上がったそう。
その後、同業社と合併、社名変更などを経て、平成18年に今の「株式会社東洋繊維」が誕生しました。
創業者・水谷定一さんが掲げたのが「実践第一主義」。
“買う身になって物をつくり、即断実践でのものづくりを実践する”
この精神のもと、いまでは国内外の大手ブランドや百貨店、スポーツブランドなどの靴下をOEM(受託生産)で作り続ける、日本トップクラスの靴下工場に成長。定一さんの後を継いだのが二代目の水谷二郎さん。そして現在は二郎さんの長男である、水谷顕冶(けんじ)さんが代表を務め、次男の陽治さんが専務に。
今回お話を伺ったのは専務の水谷陽治さん(以下、陽治さん)。
家業に戻ったのは2001年。当初は家業に戻るつもりはなかった陽治さんでしたが、戻ってみるとその厳しい経営状況に愕然としたそう。
「当時社長を務めていた親父から“戻ってきてほしい”と連絡があって。それが2001年、私が北海道・ニセコにいる時でした。1986年にバブルが弾けて、90年代後半に経営が悪化して、会社が縮小していて。頭の中では、うちの親はうまくやってんだろうと思っていたけれど、めったに話したことがない親父からの連絡は、家業を継ぐことを決断するのに十分でした」
戻ってきたからには「新しいことをしなければ」という気持ちでいっぱいだった陽治さん。しかし、父親の二郎さん、兄の顕治さんからは「仕事を取ってきてほしい」と言われるけれどそもそも戦える武器がない。
大量に安く作ることを続けてきた工場には、同一機種がたくさんあり、どの機械も同じような靴下しか作れない現状。国内靴下ブランドは安く作れる海外に生産拠点移しており、東洋繊維の取引先も減少する中で、いまの武器=編み機では戦えない・・・。
「ただ、たしかに当時の編み機だけでは厳しいと思いましたが、戻って間もない私でさえ現場で働くスタッフの技術力の高さに驚かされました。この技術をもっと生かせるものづくりがしたい。お客様のニーズに合うものが作れなければ、こんなに素晴らしい技術も生かされない。そんな想いがずっとありました」
そんな想いが少しずつ形になっていきます。
まず着手したのは他にはなかなかない「パイル編み機」の導入でした。社内からの反対を押し切り「いまこの編み機を入れないとダメだ!」となんとか導入にこぎつけます。
このパイル編み機を使って作り始めたのが、スキー・スノーボード用靴下、アウトドアブランドの登山用靴下。
「学生のころから社会人時代まで、アルバイトをしながらお金を貯めてスノーボード三昧の暮らしをしていました。長野、ヨーロッパ、アメリカなど滑りたいと思ったいろんな国、場所での生活をずっと続けていたんですが、まさか靴下作りに当時の生活が生きてくるとは、あの頃は思わなかったですね(笑)。でもシンプルに、山々で一緒に過ごした仲間、滑った仲間に東洋繊維の靴下を履いてもらいたいという純粋な気持ちが生まれて。そのためにはあのパイル編み機が必要だったんです」
導入してからは、アウトドアソックス作りに没頭。
当時の仲間がアウトドアブランドに就職したりプロになっていたりと、最初は仲間のツテで自社のソックスを広げていきます。このソックスがとても評判が良く、大手アウトドアブランドからも声がかかるほど高品質なパイル編み靴下に成長したそう。
「でもパイル編みが成功したのは何でだろうと最近振り返ったんです。わかったのは、おじいちゃん(創業者・定一さん)がとことん日本製にこだわって培ってきた“ハイゲージの靴下”を編む技術力があったからなんだと」
▲熟練の技術が必要なハイゲージソックスのリンキング。
「ただでさえ小さい靴下を、非常に細い針と極細の糸で作るハイゲージソックス。編み目と編み目を結合する「リンキング」もめちゃくちゃ難しいですが、それを平気でやってのける技術力。
その技術力があったからこそ、突然導入したパイル編み機でも現場がすんなり扱えるようになったんだと気づかされました。うちの技術力は本当にすごい」
パイル編みソックスで少しずつ光が見えてきた東洋繊維。ここから更なるチャレンジが始まります。しかし、そこには「靴下ゆえの困難」が大きく立ちはだかりました。
新たなチャレンジ。それがご存知の「美濃和紙」を使ったソックス。地元の特産品である美濃和紙を使ったソックス作りが始まります。
しかし、"新たな"とは言うものの、実は1983年ごろの二郎さん(2代目社長)の代から和紙を使ったものづくりは始まっていたそう。
「開発当時は、和紙にスリットを入れただけの糸で編んでおり“撚る=こよりにする”という工程をしていなかったので、かかとやつま先がすぐボロボロになってダメだったと聞いています。地元の特産品といった切り口で美濃市でも販売したが当然品質や生産性も悪くて」
もともと和紙ソックスの開発は、美濃市の製紙工場・大福製紙さんと先代が出会ったことがきっかけ。大福製紙さんの和紙を広めたいという想いに共感したのがはじまりだそう。
その後も大福製紙、スリットにした和紙を撚ることができる撚糸工場と東洋繊維にて悪戦苦闘を続け、ついに撚糸された和紙糸が完成します。徐々に糸も細くなっていきました。
「最初のスリット幅はなんと4ミリ。それを撚糸せずに使っていれば、それはすぐにだめになりますよね。それを撚ったとしても太すぎてハイゲージ編み機では編めずローゲージで編んでいました。そのため、和紙の特性もあってとてもガサガサだったんです。ガサガサ感は靴下では嫌われるのでとても悩みました」
時代とともに和紙糸はどんどん細くなっていきます。今のスリット幅は1.5ミリにまで細く、今では高密度のハイゲージでも編めるように。
しかし、美濃和紙の靴下を作り様々なブランドに提案するものの、二つの理由から全く採用されなかったそう。
「まず大手ブランドにとっては和紙ソックスの値段がとても高いということ。二つ目は、和紙ソックスが店頭で説明が必要なアイテムだということです。
価格については当然上がります。和紙を作りスリットを入れ、撚糸して染色してゆっくりゆっくり編んでいく。綿の靴下に比べたら編み機の回転速度は3分の1くらいです。早く編むと糸が切れてしまう。そうするとやはり生産効率が悪くなるので1足あたりの価格が上がってしまうんです。それが大手ブランドには受け入れてもらえませんでした。
そして「和紙」と聞くだけで、“水に溶けちゃうの!?”というお客様の疑問に答えなければいけない場面もあり、通常フックにひっかけて陳列している靴下売り場には馴染まない。そんな理由から苦戦しました」
うまくいかない日々が続く中で、「それならば」と兄の顕治さんとともに名古屋の百貨店で実演販売をすることに。「和紙なのに破けませんよ!」「サラサラしてとても気持ちいいソックスです!」と直接伝えてみると、お客様に理解してもらえて実際にたくさん購入につながったんだとか。
「やっぱり和紙はいいよねって。夏になると現場のスタッフは和紙のソックスを履いているし、絶対もっと行けるはずだと。そこでもう一度和紙ソックスと向き合い掘り下げていきました。そして誕生したのが、高密度に編みこんだハイゲージのビジネスソックスでした」
これならばいける!と意気込み、各ブランドに営業をかけます。
しかし、それでも上記の二つの理由からなかなか受け入れてもらえず落胆していた陽治さんに、1本の電話が入ります。
「ファクトリエの商品開発・岡田さん(上記写真・左)からでした。岡田さんとは以前、繊維商社さんの紹介で軽い名刺交換くらいでしたが、岡田さんから“和紙、とてもいいですね!ぜひ商品化しましょう!”と言われてとても嬉しくて。東京に営業に来て打ちひしがれていたときの電話でしたので、一気にモチベーションが上がりすぐに会いに行きました(笑)。そこからファクトリエとの取り組みがスタートしました」
ファクトリエとの打ち合わせではこれまで和紙で作ったことがなかった、くるぶしより高さが低い「カバーソックス」や「和紙のパイル編みソックス」など、新しいチャレンジが始まりました。
「特にカバーソックスについては、工場のスタッフから「無理無理!」と猛反対でした(笑)。カバーソックスを作るためには、イタリア製・高速回転ハイゲージ編み機を使う必要があって。
▲イタリア製・高速回転ハイゲージ編み機
この機械はコンピューター制御なのでプログラミングの問題や、そもそも糸が高速回転に耐えられないということでみんな反対でしたね。今でこそ、普通にみんな編めるようになっているんですが、“また陽治が変なこと言ってるな”という反応でした(笑)。でも、目を付けてくれたファクトリエとの取り組みだったのでぜひともやりたいと、社内を説得して一歩ずつ開発していきました」
全く新しいチャレンジについて社内を説得するために、まずファクトリエの説明から始めた陽治さん。
「ファクトリエの取り組みや想い、そして今回ファクトリエとソックスを作ることの意味や価値をしっかり伝えました。北海道から工場に帰ってきて、パイル編み機を入れたいと言い出したときから、現場のスタッフとはたくさんケンカしてきたし、“何も知らない若造が無茶なこと言っているな”という感じでした。でも、新しい挑戦をするときにしっかり熱意をもって伝えていくうちに、“それが実現したら面白いね”ってスタッフが言ってくれるようになって。お客様からのいい声・悪い声も直接しっかり伝えると、“あぁ、確かにあの方法を試してなかったな”みたいに、現場から意見がどんどん出始めたり。そうやってメンバーとの距離を縮めていけたのかな、と思っています」
この取り組みへの理解を得られた後は、国家試験1級の技術力を持つ東洋繊維のものづくり力が発揮され、ついに初めての和紙カバーソックス、パイル編みソックスが誕生。
「この靴下もそうですが、和紙ソックスがファクトリエのオンラインサイトや店頭に置かれているのを見て、本当にうれしかったです。靴下を作っている身として憧れの工場・グレンクライドさんの横に並んでいるのも何とも言えない気持ちでした」
ついに日の目を見た和紙ソックス。
モノの奥にこれまでの努力と数々の挑戦のストーリー、想いがたくさん詰まっていますので、ぜひお試しくださいね。
陽治さん曰く、“ござの上を素足で歩いているような感覚を味わえるソックス”。とても気持ちいいですよ。
「10年くらい前に、この先どうしようかと相当悩んだ時期があって。その時たまたま東海地区のアパレル人物を紹介している本を実家で見つけたんです。すると、おじいちゃん(創業者・定一さん)が3ページにわたって紹介されていて。この記事を兄貴と一緒に読んで、“この工場、絶対につぶしちゃだめだな”って思ったんです」
「OEM(受託生産)の数がどんどん減少しているのに、取引先からの電話をずっと待っているような自分だったことにこの本が気づかせてくれました。岐阜の田舎で待っていても意味がない。東京や大阪に行って、人と会って動いて動いて、化学反応を起こして仕事をしないと何も始まらないって。
この工場をなくしちゃいけないという想いは、想うだけでは形にならなくて、この時ようやく本当の意味で「責任感」が生まれたんだと思います。
まだまだやるべきこと、やりたいことはありますが、“一歩ずつ進化しているんだ”と自分に言い聞かせながら、毎日行動していきたいですね」
昭和12年に創業し一貫して靴下作りを行う、日本トップクラスの靴下工場。百貨店専門店はもちろんトップアスリート用の靴下も開発。日本国内でもめずらしい全ての工程を備える一貫して靴下作りを行える工場で、国内のみならず積極的に海外工場を視察して中国国内にも合弁工場を設立し、べトナム・バングラディシュ等でも生産を手かげている。
岐阜県関市保明1632番地